福沢諭吉「人間の安心」『福翁百話』より

 宇宙の間に我(わが)地球の存在するは大海に浮べる芥子(けし)の一粒と云うも中々おろかなり。吾々の名づけて人間と称する動物は、この芥子粒の上に生れ又死するものにして、生れてその生るる所以を知らず、死してその死する所以を知らず、由(よっ)て来(きた)る所を知らず、去(さっ)て往く所を知らず、五、六尺の身体僅(わずか)に百年の寿命も得難し、塵の如く埃の如く、溜水(たまりみず)に浮沈する孑孑(ぼうふら)の如し。蜉蝣(ふゆう)は朝(あした)に生れて夕(ゆうべ)に死すと云うと雖も、人間の寿命に較べて差したる相違にあらず。蚤と蟻と丈(せい)くらべしても大象の眼より見れば大小なく、一秒時の遅速を争うも百年の勘定の上には論ずるに足らず。左(さ)れば宇宙無辺の考を以て独り自(みず)から観ずれば、日月(にちげつ)も小なり地球も微なり。況して人間の如き、無智無力、見る影もなき蛆虫同様の小動物にして、石火(せっか)電光の瞬間、偶然この世に呼吸眠食し、喜怒哀楽の一夢中(いちむちゅう)、忽ち消えて痕なきのみ。然るに彼(か)の凡俗の俗世界に、貴賤貧富、栄枯盛衰などとて、孜々(しし)経営して心身を労するその有様は、庭に塚築(つ)く蟻の群集が驟雨の襲い来(きた)るを知らざるがごとく、夏の青草(せいそう)に飜々(ほんぽん)たる螇蚚(ばった)が俄に秋風(しゅうふう)の寒きに驚くが如く、可笑しくも又浅ましき次第なれども、既に世界に生れ出(いで)たる上は蛆虫ながらも相応の覚悟なきを得ず。即ちその覚悟とは何ぞや。人生本来戯(たわむれ)と知りながら、この一場(いちじょう)の戯(たわむれ)を戯とせずして恰も真面目に勤め、貧苦を去(さっ)て富楽に志し、同類の邪魔せずして自(みず)から安楽を求め、五十、七十の寿命も永きものと思うて、父母に事(つか)え夫婦相(あい)親しみ、子孫の計(はかりごと)を為し又戸外の公益を謀り、生涯一点の過失なからんことに心掛(こころがく)るこそ蛆虫の本分なれ。否な蛆虫の事に非ず、万物の霊として人間の独り誇る所のものなり。唯(ただ)戯(たわむれ)と知りつつ戯(たわむ)るれば心安くして戯の極端に走ることなきのみか、時に或(あるい)は俗界百戯(ひゃくぎ)の中に雑居して独り戯れざるも亦(また)可なり。人間の安心法は凡そこの辺に在て大なる過(あやまち)なかるべし。