泉鏡花『草迷宮』

「其(それ)が貴僧(あなた)、前刻(さつき)お話をしかけました、あの手毬の事なんです。」
「ああ、其の手毬が、最(も)う一度御覧なさりたいので。」
「否(いいえ)、手毬の歌が聞きたいのです。」
 と、うつとりと云つた目の涼しさ。月の夢を見るやうなれば、変つた望み、と疑ひの、胸に起る雲消えて、僧は一膝(ひとひざ)進めたのである。
「大空の雲を当てに何処(いづこ)となく、海があれば渡り、山があれば越し、里には宿つて、国々を歩行(ある)きますのも、詮ずる処、或(ある)意味の手毬唄を……」
「手毬唄を。……如何(いかが)な次第でございます。」
「夢とも、現(うつつ)とも、幻とも……目に見えるやうで、口には謂(い)へぬ――而(そ)して、優しい、懐しい、あはれな、情(じやう)のある、愛の籠つた、ふつくりした、然(しか)も、清く、涼しく、悚然(ぞつ)とする、胸を搔挘(かきむし)るやうな、あの、恍惚(うつとり)となるやうな、まあ例へて言へば、芳しい清らかな乳を含みながら、生れない前(さき)に腹の中で、美しい母の胸を見るやうな心持の――唄なんですが、其の文句を忘れたので、命にかけて、憧憬(あこが)れて、それを聞きたいと思ひますんです。」
 此の数分時(すうふんじ)の言(ことば)の中(うち)に、小次郎法師は、生れて以来、聞いただけの、風と水と、鐘の音(おと)、楽(がく)、あらゆる人の声、虫の音(ね)、木(こ)の葉の囁きまで、稲妻の如く胸の裡(うち)に繰返し、猶(なほ)且つ覚えただけの経文(きやうもん)を、颯(さつ)と金字(こんじ)紺泥(こんでい)に瞳に描いて試みたが、其かと思ふのは更に分らぬ。
「して、其の唄は、貴下(あなた)お聞きに成つたことがございませうか。」
「小児(こども)の時に、亡くなつた母親が唄ひましたことを、物心覚えた最後の記憶に留(と)めただけで、何(ど)う云ふのか、其の文句を忘れたんです。
 年を取るに従うて、まるで貴僧(あなた)、物語で見る切ない恋のやうに、其の声、其の唄が聞きたくツてなりません。」