渡部昇一『国民の教育』

 なぜ、今の日本でいじめ問題が深刻化しているのか。それについては、さまざまな解釈や議論がなされているが、これという明確な答えは出ていない。しかし、どうすれば「いじめ」の結果、自殺してしまう子どもたちを減らせるかははっきりしている。
 今の日本で、いじめが陰惨を極めるようになった最大の理由は、逃げ場がないことである。
 理由なき「いじめ」は学校に限らず、社会の至るところに存在する。肌の色や宗教の違いによる「いじめ」もあるし、また会社や組織のなかでも同種の「いじめ」が行われることもある。要するに人間集団のあるところ、「いじめ」はつねに存在すると言ってもいい。
 それなのに、なぜ学校の、とくに小・中学校の「いじめ」だけが極端に激しくなり、自殺者をも生み出すようになったのであろうか。それは、今の義務教育制度では、いじめられたときに、そこから逃げ出す方法がないからである。
 かつての日本でもっとも「いじめ」が横行したのは江戸時代の牢屋であり、戦前の軍隊であったが、この二つに共通しているのは、どちらも逃げ場がないという点である。
 江戸時代の牢屋でいかなる陰惨ないじめが行われたかは、時代小説にしばしば書かれている。牢の中には厳然とした階級があり、牢名主(ろうなぬし)と呼ばれた人間は新入りの囚人を徹底的にいじめた。松本清張の小説によれば、文字どおり糞を食らわせることもあったらしいし、またときとして仕置きが激しすぎて死んでしまう者もいたようである。
 このような悲劇が起きてしまうのも、いったん牢に入ってしまうと、いかに残酷ないじめをやられても逃げ出す術がないからである。
 同じように、戦前の軍隊でも古参兵の新兵いじめが行われた。さまざまな戦記物で書かれているから、今さら実例を紹介する必要もないであろう。これもまた、徴兵という、逃げ場のない制度が生み出した悲劇であった。
 ひとたび入った学校をなかなか替えるわけにもいかないことが、今の小・中学校でのいじめをエスカレートさせる大きな要因となっている。高校ならば中退という道もあるが、義務教育の小学校、中学校の場合、中退はもちろんのこと、転校するのも実際には難しい。
 しかし、塾を義務教育機関の一種と認定し、学校の設置基準をなくして私立の新設校を増やせば、この状況は大幅に変わるはずである。
 いじめる同級生がいて、そのことを学校側に訴えても何の対処もしてくれないのなら、そのような学校にいつまでもいる義理はない。さっさと転校して、もっとましな学校に移ることが許されれば、それだけでもいじめの深刻化は防げるはずである。