山崎正和「「教養の危機」を超えて」

 一九四五年の春、十九歳になった一人の哲学志望の青年は新潟県の山深い寒村にいた。すでに太平洋戦争も末期的な段階にはいっていて、戦時措置の繰り上げ入学で東京大学に進んだ青年は、しかし学業のいとまもなく動員されて農業に従事していたのである。
 いつ召集令状が来るかわからず、来ればただちに死を意味する日々のなかで、青年は過酷な労働の隙を盗んで本を読んでいた。その知識を将来に役立てる見通しもなく、知識を持つことが称賛されることもない状況のもとで、彼はただ現在の自分自身を支えるために本を読んでいた。未来を奪われ、外界から切り離され、穴蔵の底に閉じ込められた青年にとって、携えた四十冊ばかりの本だけが文明世界へと開かれた窓だったはずである。
 青年とは、読売新聞社の最高責任者を務める渡邉恒雄氏のことであって、氏が談話取材に応じた『中央公論』誌にそのときの読書一覧が載っている(「渡邉恒雄 政治記者一代記」一九九八年十一月号)。一見して感銘深いのは、この早熟な青年の見識の確かさであるが、それとあわせて、あの時代にはまだ安定した教養の常識があったという印象である。カントの『純粋理性批判』『実践理性批判』を筆頭に、ニーチェ西田幾多郎が並ぶのはいかにも哲学青年らしいが、その後にはゲーテ、ハイネ、島崎藤村上田敏の詩集が続く。カロッサにヘッセ、バルザックプーシキンに混じって、ダンテの『神曲』がありミルトンの『失楽園』が見え、『文藝復興』とあるのはたぶんウオルター・ペーターの名著だろう。
 私と同世代、あるいは先立つ世代の人がこれを見れば、ここに大正、昭和初期を通じて形成された、一つのまとまった知的世界があることに同意するだろう。これにマルクス実存主義を加えれば、リストはさらに完全になる。浮かびあがるのは、たとえば昭和二年創刊の「岩波文庫」によって集成され、昭和四十年代の名著全集の流行とともに終わった、あの体系的な教養の世界である。それは当時の知識人の多くが常識とし、生死のきわの大学生の咄嗟のうちに思い起こせる確実な世界であった。いま渡邉氏の読書リストをまえにして感慨深いのは、いまはもはや学生はおろか大学教師にすら、このような一覧を瞬時に確信を持ってつくることを不可能にした、時代の変化なのである。