丸谷才一「批評の必要」

 小説を商品として考へてみよう。新作小説は新商品だから、もしそれがいいものなら誰だつて使ひたい。つまり読みたい。そこで、買つて得のする、あるいは損のゆく、商品だよとみんなに教へるのが批評家の役目である。さらに、ほかの製造業者、つまり小説家に対して、どこそこから出た何々といふ商品はこれこれしかじかの性格のもので、新工夫は何々、どういふ長所、どういふ短所があると告げるのが批評家である。すなはち、購買層にとつても業界にとつても、批評文といふ情報はいろいろ役に立つ。
 しかし小説は複雑なものだから、この見立てだけではうまくゆかない。もう一つ、別の比喩を使ふ必要がある。
 がらりと話が変るやうだが、一般に藝術には、神々に献げる供物といふ局面がある。この供物の出来は、よかつたり悪かつたりさまざまだが、しかしとにかくある種の人物(藝術家)はみんなのためにそれを供へることで世界を祝福し更新しようとするだ。彼らは祭を司る神官なのである。しかしせつかくの祭だもの、終つたらそれきりではなく、しばらく後味を楽しみたいのは人情の常である。必然的に、祭の感想を語りあふことになるし、また、その感想を交換することは次に誰かが供物を献げるときの参考になる。そんなわけで、藝術には批評といふものが不可欠なことになつた。
 こんな事情だから、批評はやはりあるほうがいい。たとへ優秀でない批評家の評論でも、まつたくないよりはずつとましなのである。
 ところが今の日本には、批評のまつたくない藝術がある。しかもそれはあらゆる藝術のなかで最も金のかかるもので、それが未曾有の盛況だし、たぶん全世界的に見ても珍しいほどの殷賑ぶりではないか。それなのに批評がないのはまことに不思議な話だ。と言ふとき、わたしは建築批評の不在を嘆いてゐるのだ。
 建築は厖大な出費を要するし、建築家に支払はれる報酬も巨額である。長篇小説を一つ書くのにかかる費用や、それを刊行して得る収入(たとへ大当りを取つたとて)とくらべて、比較にならない。それに、長篇小説の読者数は、大ベスト・セラーになつたときでも高が知れてるが、たとへば役所、劇場、美術館、ビルディング、マンションなどの利用者は圧倒的多数だ。まして、その建物を眺望する人数となつたら、気が遠くなるくらゐだらう。それなのに建築の批評家がゐないのは、われわれの文明の重大な欠陥だといふ気がする。どうやら日本人は、私的な作品(たとへば小説)についてはあれこれ言ふ習慣はあつても、公的な作品(たとへば建築)に対しては口をつぐむ国民らしい。しかしこれではわれわれの都市はいつまでも美しくならない。
 イギリスの場合、事情はまつたく違ふ。あの国の週刊新聞や週刊誌はたいてい建築批評のページを設けてゐるし、最近ではチャールズ皇太子が現代建築を論難して大受けに受けた。建築批評が国民全体の伝統的な関心事だからこそ、あれだけの反響があつたのだらう。
 さういふ伝統を作るためにも、建築を論ずる批評家が待ち望まれる。はじめは大したことのない論客でもいい。片上伸や赤木桁平に技癢(ぎよう)を感じて、広津和郎佐藤春夫は出現したのである。