小田実『何でも見てやろう』

「画一主義(コンフォーミズム)」から脱け出す、あるいはそのポーズをする近路は、他国の事物、そのもろもろにとびつくことである。それもフランスなどというケチくさいことは言うまい。中国もいいが、あそこは政治が気にくわぬ。とすると、日本だ。日本もまたえらく古い国だし、よくわけはわからないながら、すばらしい文化がありそうだし、日本へ兵隊で行っていたうちのオジ貴の話では、風景美しく人情こまやか、おまけに女性はすばらしいとのことだし、それにあのZENというやつも人があれほど言うのだから、ひとつ研究してみてもよいではないか、とにかくあそこには何かがあるかもしれない、とまあそんなふうな過程で、「日本ブーム」は起ってきたのだろう。
 日本でなら、ちょっとインテリぶる人は、英語あるいはアメリカ語を入れる。もっとインテリぶりたい人はフランス語を入れて、「サヨナラ」と言えばよいところを「オー・ルボワ」と言ってみたりする。アメリカでなら、ちょっと通ぶって「オー・ルボワ」、大通、大インテリとなると、それが「サヨナラ」になる。そのほうがあの高級な日本映画のファンのようだし、ZENブッディズムにも通暁しているようにも見える。ある大インテリが、「スムレー、スムレーが……」と言うから何かと思ったら「サムライ」のことであった。
 こういうわけで、ちょっと気がきいた、あるいは気がききたい連中は、何かしら「日本もの」をもっている。もっとも、めんくらうことも往々にしてある。あるすてきにきれいな女の子のアパートに入って行ったら、眼の前にぶらさがっていたのは「大売出し」の赤い旗であった。それが、さかさになっている。えらく意味深長なのであわてて訊ねてみたら、彼女はそれを日本共産党の旗だと思っているのであった。彼女の茶目なアメリカ人のボーイ・フレンドが東京から持って帰ってきたものらしい。そのボーイ・フレンドが彼女をいっぱいひっかけたのか、それとも彼もまたそう信じていたのか、知る由もない。
 あるえらい人の客間には、葬式用のチョーチンが二つれいれいしくかざってあった。彼が非常にその二つを好み、また自慢しているらしいので、とうとう私にはその真の用途を明かす勇気は出なかった。
 しかし、笑うまい。われわれの「西洋」理解だって、いろんなトンチンカンをやってここまで来たのではないか。まだ「日本ブーム」は先日始まったばかりなのだ。