加藤周一『私にとっての二〇世紀』

 経済学者が「反戦」ということをいわないという時に、「なぜいわないのですか」と訊ねると、私の専門は経済だから専門ではない。ヴェトナム戦争はもちろん経済現象ではあるが経済現象だけではない、もっと複雑な政治的、イデオロギー的、さまざまな文化的問題を含んでいて、「それは私の専門でない」。だから、専門の外には踏み出すことはできないというわけです。そういう立場を堅持しますと、経済学者は、ヴェトナム戦争の、経済現象としての側面については意見があるが、ほかの側面については意見はないとなる。ところが、戦争は経済現象だけでなく、ほかの面があることは分かりきっていることです。歴史的、政治的、経済的、軍事的、技術的、大衆心理学的その他の現象の総合だから、経済的側面だけ知っていたのでは戦争の全体にならない。専門の外に踏み出さないと反対できないから沈黙しますということになる。
 沈黙とは、現在進行していることの、少なくとも民主主義社会では容認です。彼のいっているとおりならば、判断できないのだから、戦争を容認することも専門外の行為だから間違いなわけです。したがって、沈黙も彼にはできない。話すこともできないし、沈黙することもできない。だから、「専門外のことで意見はありません」というのは噓なのです。そんな馬鹿なことはない。
 もし本当にそうならば一週間だって暮らせない。家族と一緒に住んでいるのだから、奥さんがいて子どもがいる。子どもというのは社会的存在であり政治学的存在であり経済学的主体でもある。経済学的主体としての私の娘は分かるけれど、政治学的、心理学的、物理学的、生物学的存在としての私の娘は分からない、だから、私の娘の全体については意見がありません、というのと同じです。家族と一緒に暮らしていて、それは愛着があるし、かわいがっていたりする。明らかに経済学者としての専門領域から踏み出しているのです。
 専門領域から踏み出したことに意見がないというのは虚偽です。