司馬遼太郎『草原の記』

 ウランバートルは、二千年の大民族の首都でありながら、かれらが栄えた十三世紀の世界帝国のころの遺物や遺跡や博物館もない。ソ連がそれをゆるさなかったということもあるだろうが、ひとつには物への執着が稀薄すぎるようなのである。


 元のことが、脳裏にある。元史というより、元の騎士たちの所作のことである。
 モンゴル世界帝国の一部として、中国史において元王朝(一二六〇〜一三六八)が存在した。歴世の大王朝のなかでは寿命がみじかく、百年あまりであっけなくほろんだ。
 ほろんだとき、この支配民族の所作はまことに淡泊で、中国の各地にいたモンゴルの大官や将軍、あるいは士卒たちはいっせいに馬に乗り、北へ帰った。
 かれらは中国における自領やら権益などはチリのように捨てた。当時の漢人たちはあきれ、
「元の北帰(ほっき)」
 という動物の習性用語でそれを表現した。
 北帰とは、中国語である。しばしば雁(がん)についてつかわれてきた動物習性語で、人間のことではつかわれることがまずなかった。秋にわたってきた雁が、春になると隊伍を組んで北へ帰る。
 古代の匈奴についても、『漢書』などで北帰ということばがつかわれた。かれらは、秋、北のモンゴル高原の草が枯れると南下をはじめ、現在、中国内モンゴル自治区になっている黄河流域のオルドスで遊牧をする。ときに大同・雲崗(うんこう)あたりの漢人農村を劫掠(きょうりゃく)し、春、枯草のモンゴル高原に草が萌えはじめると、北へ帰る。北帰である。漢人からみれば雁に似ている。
  〔中略〕
 帰国後、ありったけの馬の本を読んだ。
 が、馬に帰巣本能があるなどとは、どこにも書かれていなかった。
 ただ、標高千から三千メートルのこの高原の馬たちにのみこのふしぎが見られるとすれば、高原の人々にもそういうふしぎがあってよいような気がする。ブルンサイン教授が、かれのうまれた草原でないにせよ、つらかった生の最後にここにもどってきたのは、帰巣であったのかもしれない。
 遥かにいえば、元の北帰に似ているようにおもえる。

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