國分功一郎『暇と退屈の倫理学』

 盲導犬を一人前に仕立て上げることの難しさはよく知られている。訓練を受けた盲導犬がすべて盲導犬としての役割を果たすようになるわけではない。
 なぜ盲導犬を訓練によって一人前に仕立て上げることはこれほど難しいのか? それは、その犬が生きる環世界のなかに、犬の利益になるシグナルではなくて、盲人の利益になるシグナルを組み込まなければならないからである。要するに、その犬の環世界を変形し、人間の環世界に近づけなければならないのだ。
 盲導犬は盲人がぶつかるかもしれない障害物を迂回しなければならない。しかもその障害物は犬にとってはすこしも障害でない場合がある。たとえば窓が道に向かって開いている場合、犬は難なくその下を通り抜けるが、人間はその窓にぶつかってしまう。一匹の犬を盲導犬にするためには、その犬がもともと有していた環世界では気にもとめなかったものに、わざわざ気を配るように訓練しなければならない。これが大変難しいのだ。
 この例が教えるところは非常に重要である。盲導犬は訓練を受けることで、犬の環世界から人間の環世界に近いものへと移動する。それは困難であるが不可能ではない盲導犬は見事に環世界の移動を成し遂げる。
 おそらく生物の進化の過程についてもここから考察を深めることができるはずである。ダーウィンカッコウの托卵、奴隷をつくるアリ、ミツバチの巣房(すぼう)などの驚くべき例をもって説明したように、生物は自らが生きる環境に適応すべく、その本能を変化させていく。対応できなければ死滅することもある。
 さて、環境への適応、本能の変化は、当然ながら環世界の移動を伴うだろう。それは長い生存競争を経て果たされる変化である。容易ではない。だが、すこしも不可能ではない。こうしてみると、あらゆる生物には環世界の間を移動する能力があると言うべきなのだろう。
 人間にも環世界を移動する能力がある。その点ではその他の生物(さらには生物全般)と変わらない。ただし、人間の場合には他の動物とはすこし事情が異なっている。どういうことかと言うと、人間は他の動物とは比較にならないほど容易に環世界の間を移動するのである。つまり環世界の間を移動する能力が相当に発達しているのだ。
 たとえば宇宙物理学について何も知らない高校生でも、大学で四年間それを勉強すれば、高校のときとはまったく違う夜空を眺めることになろう。作曲の勉強をすれば、それまで聞いていたポピュラーミュージックはまったく別様に聞こえるだろう。鉱物学の勉強をすれば、単なる石ころ一つ一つが目につくようになる。
 それだけではない。人間は複数の環世界を往復したり、巡回したりしながら生きている。例えば会社員はオフィスでは人間関係に気を配り、書類や数字に敏感に反応しながら生きている。しかし、自宅に戻ればそのような注意力は働かない。子どもは遊びながら空想の世界を駆け巡る。彼らの目には人形が生き物のように見えるし、いかなる場所も遊び場になる。しかし学校に行ったら教師の言うことに注意し、友人の顔色に反応しながら、勉強に集中せねばならない。人間のように環世界を往復したり巡回したりしながら生きている生物を他に見つけることはおそらく難しいだろう。
  〔中略〕
 環世界論から見出される人間と動物との差異とは何か? それは人間がその他の動物に比べて極めて高い環世界間移動能力をもっているということである。人間は動物に比べて、比較的容易に環世界を移動する。
「比較的」というところが重要である。その他の動物もまた困難でこそあれ、環世界を移動することができる。盲導犬の例はそれにあたるし、生物が進化の過程で環境に適応していくのもそれにあたる。しかし、人間の場合にはこの移動能力がずば抜けて高い。つまり、動物と人間の差異は相対的である。そして相対的ではあるが、量的にはかなり大きな差、相当な差である。ここにこそ、人間とその他の動物との区別が見出されるのではないだろうか?

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