藤原正彦「数学と文学」

 数学は自然科学の一分野として一般に考えられているが、私は必ずしもそれに同意していない。数学が自然科学の諸分野に不思議なほど効果的に利用されてきた、という歴史的事実があるに過ぎない。物理学等の要請を受けて数学が発展することもあるが、多くの場合、数学者は実際的応用などは考慮せずに数学を創り上げている。とは言え、論理的に正しいというだけのことを無闇に創っている訳ではなく、やはりある種の価値基準に従って進んでいる。通常、理論の価値はその美しさによって決まると言ってよい。論理を追っただけの人為的な数学は何故か美しさに欠けているし、また不可解なことだが、美しいものに限って、後になって応用面での高い価値が見出されたりする。数学における美しさがどんなものであるかは、その高度な抽象性により小文では説明しがたい。しかし、数学でも詩でも音楽でも、美しいものには共通の感動があると言える。それは音楽の調べで、ただ一つドをレにしても、また詩や俳句、和歌において、たった一つの言葉を何か他のもので置き換えただけでも、全体が駄目になってしまう、というような際どい緊張感である。複雑な部分部分が、はりつめた糸で結ばれ、見事に統一され、玲瓏とも言うべき調和の世界を作り上げている。そこには美の極致とさえ呼べるものがある。この点では、数学は自然科学より芸術に近い。いくばくかの文学者を惹きつける引力の正体は、数学の内包する底知れぬ美と調和なのかも知れない。