中谷宇吉郎『科学の方法』

 紙の落ち方は、同じ落ち方を二度とはしないが、ほんとうのところは、鉄の球でも二度と同じ落ち方はしないのである。原理的には、両方とも同じことであるが、鉄の球の場合は、再現可能な要素が強く、不安定で再現困難な要素の影響が、測定の精度よりも小さくなって、測られないというだけのことである。鉄の球の場合は、九九・九九%まで説明できるのであるから、それでいいのではないかともいえる。しかしそれは、その程度で間に合うということであって、それがほんとうの自然の姿であるとはいえない。
 しかし自然のほんとうの姿は、永久に分らないものであり、また自然界を支配している法則も、そういうものが外界のどこかに隠れていて、それを人間が掘り当てるというような性質のものではない、という立場をとれば、これがほんとうの自然の姿なのである。自然現象は非常に複雑なものであって、人間の力でその全体をつかむことはできない。ただその複雑なものの中から、科学の思考形式にかなった面を抜き出したものが、法則である。それで生命現象などのはいらない、比較的簡単な自然現象だけに話を限っても、現在われわれが科学と呼んでいるものでは、取り扱えない、あるいは取り扱うことが非常に困難な問題は、いくらでもある。実際のところ、自然界に起っている現象では、生命現象はもちろんのこと、物質間に起る簡単なように見える問題でも、厳密にいえば、同じことは決して二度とはくり返して起らない。そういう現象を、もし条件が全く一様ならば、同じことがくり返して起るはずであるという見方で、取り扱うのが、科学である。こういう見方であるから、もし同じ結果が出なかったら、原因はほかにあるのだろうとして、更に調べていくわけである。これがすなわち科学の見方である。もっとも別の見方もある。ほんとうの現象は、どんどん変化していって、二度と同じことはくり返されないという見方もできる。これは歴史の見方である。現象を歴史的に見るか、科学的に見るかという根本のちがいは、ここにあるように思われる。