中谷宇吉郎「語呂の論理」

「雪中の虫」の説はなかなかの傑作である。凡そ銅鉄の腐るはじめは虫が生ずるためで、「錆(さびる)は腐(くさる)の始(はじめ)、錆(さび)の中かならず虫あり、肉眼に及ばざるゆゑ」人が知らないのであるが、これは蘭人の説であるという説明があって、その次に「金中猶(かねのなかなお)虫あり、雪中(ゆきのなか)虫無(なから)んや」というのが出て来るのである。
「雪中虫無んや」の話は、その時は大笑いになって済んでしまった。そして西洋の自然科学風な考え方の洗礼をまだ受けていない頃のわれわれの祖先の頭の中をちらと覗いたような気がして大変愉快であった。ところがその後(ご)よく注意していると、この語呂の論理は案外現代にも色々の所ですました顔をして通用しているということに気がついた。特に驚いたことには、ちゃんとした現代科学の学会の討論などにも、時々は「金中猶虫あり、雪中虫無んや」と全く同じ論理が出て来ることがあるのである。もっともそういう論をする人を、徳川時代の頭の人と言おうというのではない。恥しい話であるが、現在の我国の科学界は世界の水準を抜いているように新聞や雑誌などに時々書かれていることもあるが、それはどうも余所眼(よそめ)の話で、本当に内部に入って、その学問的地位を冷静に考えて見ると、まだまだ日本の学問は世界的の水準に達していないと私には思われる。少し極端にいえば、外国に柿に種が六つあるという論文が出ると、梨には八つあるという論文が日本で一、二年後に出るような程度のことがまだかなり多いのである。それから見たら、語呂の論理でも何でも、とにかく一つの見識を持とうというのはまだ良い方であるのかも知れない。
 この三、四年来、日本の気候医学の方面で、空気イオンの衛生学的研究が一部で盛(さかん)に始められた。或る大学の研究室では、陰イオンが、喘息や結核性微熱に対して沈静的に作用するという結果を得て、臨床的にも応用するまでになっていた。そして陽イオンはそれと反対に興奮性の影響を与えるということにされていた。ところが他の大学の研究では、イオンの生理作用は、陰陽共に同一方向の影響があって、ただその作用の程度が、イオンの種類によって異るという実験的結果が沢山出て来た。それで学会で、これらの二系統の論文が並んで発表された時には、勿論盛な討論が行われた。或る理由でその席上に連っていた私は、その方面とはまるで専門ちがいなので極めて暢気に構えて、その討論を聞いて面白がっていた。その中にはこういうのもあった。「陰イオンが沈静的に働くということは、既に臨床的にも沢山の例について確証されている。これは実験的の事実である。それが事実とすれば、陽イオンがその反対に、興奮的に作用するということもまた疑う余地がない」という議論が出て来たのである。これなどは、正(まさ)しく語呂の論理の適例であろう。もっともこういう立派な学会での討論を「雪中虫無んや」と内容的に同じものというのでは決してないが、論理の形式が同型のものであることは認められるであろう。勿論、実際は陰イオンが沈静的に働き、陽イオンが興奮的に作用するという研究結果を得られて、その事実を発表しようとされたのであろうが、それを聴衆に納得させようとした時に、不用意のうちに、われわれの祖先の持っていた表現形式が出て来たのであろう。こういう風に見ると、語呂の論理は日本人の頭の奥底にかなり強い一つの思想形式として今もなお残っているものと見るべきであろう。