谷崎潤一郎『春琴抄』

程経て春琴が起き出でた頃手さぐりしながら奥の間に行きお師匠様私はめしひになりました。もう一生涯お顔を見ることはござりませぬと彼女の前に額づいて云つた。佐助、それはほうんたうか、と春琴は一語を発し長い間黙然と沈思してゐた佐助は此の世に生れてから後にも先にも此の沈黙の数分間程楽しい時を生きたことがなかつた昔悪七兵衛景清は頼朝の器量に感じて復讐の念を断じ最早や再び此の人の姿を見まいと誓ひ両眼を抉り取つたと云ふそれと動機は異なるけれどもその志の悲壮なことは同じであるそれにしても春琴が彼に求めたものは斯くの如きことであつた乎(か)過日彼女が涙を流して訴へたのは、私がこんな災難に遭つた以上お前も盲目になつて欲しいと云ふ意であつた乎そこ迄は忖度し難いけれども、佐助それはほんたうかと云つた短かい一語が佐助の耳には喜びに慄へてゐるやうに聞えた。そして無言で相対しつつある間に盲人のみが持つ第六感の働きが佐助の官能に芽生えて来て唯感謝の一念より外何物もない春琴の胸の中を自づと会得することが出来た今迄肉体の交渉はありながら師弟の差別に隔てられてゐた心と心とが始めて犇(ひし)と抱き合ひ一つに流れて行くのを感じた少年の頃押入れの中の暗黒世界で三味線の稽古をした時の記憶が蘇生(よみがへ)つて来たがそれとは全然心持が違つた凡そ大概な盲人は光の方向感だけは持つてゐる故に盲人の視野はほの明るいもので暗黒世界ではないのである佐助は今こそ外界の眼を失つた代りに内界の眼が開けたのを知り嗚呼此れが本当にお師匠様の住んでいらつしやる世界なのだ此れで漸(やうや)うお師匠様と同じ世界に住むことが出来たと思つたもう衰へた彼の視力では部屋の様子も春琴の姿もはつきり見分けられなかつたが繃帯で包んだ顔の所在だけが、ぽうつと仄白く網膜に映じた彼にはそれが繃帯とは思へなかつたつい二た月前迄のお師匠様の円満微妙な色白の顔が鈍い明りの圏の中に来迎仏の如く浮かんだ