島崎藤村「おくめ」『若菜集』より

こひしきままに家を出(い)で
ここの岸よりかの岸へ
越えましものと来て見れば
千鳥鳴くなり夕まぐれ


こひには親も捨てはてて
やむよしもなき胸の火や
鬢(びん)の毛を吹く河風よ
せめてあはれと思へかし


河波暗く瀬を早み
流れて巌(いは)に砕くるも
君を思へば絶間なき
恋の火炎(ほのほ)に乾くべし


きのふの雨の小休(をやみ)なく
水嵩(みかさ)や高くまさるとも
よひよひになくわがこひの
涙の滝におよばじな


しりたまはずやわがこひは
花鳥(はなとり)の絵にあらじかし
空鏡(かがみ)の印象(かたち)砂の文字
梢の風の音(ね)にあらじ


しりたまはずやわがこひは
雄々しき君の手に触れて
嗚呼口紅をその口に
君にうつさでやむべきや


恋は吾身(わがみ)の社(やしろ)にて
君は社の神なれば
君の祭壇(つくゑ)の上ならで
なににいのちを捧げまし


砕かば砕け河波よ
われに命はあるものを
河波高く泳ぎ行き
ひとりの神にこがれなむ


心のみかは手も足も
吾身はすべて火炎なり
思ひ乱れて嗚呼恋の
千筋(ちすぢ)の髪の波に流るる