ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(若島正 訳)

二〇代から三〇代前半にかけて、私は自分の苦悩をはっきり理解していたわけではなかった。肉体は何を渇望しているかわかっていても、肉体の訴えを心がことごとく退けてしまうのだった。あるときは羞恥心や恐怖を覚えても、またあるときには無軌道なまでに楽観的になってしまう。タブーで私は窒息しそうだった。精神分析学者は、偽リビドーの偽解放といった甘言をささやいた。私にとって、愛に震える唯一の対象がアナベルの妹たちであり、その侍女であり女小姓であるという事実が、精神錯乱の前兆かと思えたこともある。これは心の持ちようの問題にすぎず、少女に千々に乱れてしまうのはどこもおかしいところはない、と自分に言い聞かせたこともある。ここで読者に留意していただきたいが、英国では、一九三三年に児童青少年法が可決されたのに伴って、「少女」という用語は「八歳以上一四歳未満の女子」と定義されている(その先、一四歳から一七歳までは、法律上の定義は「青少年」になる)。アメリカ合衆国マサチューセッツ州では、それに対して、「非行児」とは厳密に言えば「七歳から一七歳まで」の(さらには、悪い人間または不道徳な人間と習慣的につきあっている)子供を指す。ジェイムズ一世の時代に、ヒュー・ブロートンは非難の的となった著作の中で、ラハブが一〇歳ですでに娼婦だったことを証明した。これはまさに興味津々で、私が発作を起こして口から泡を吹いている姿をきっと読者はご想像だと思うが、残念ながらそうではない。私はティドルウィンクスのカップに楽しい空想を投げ入れているだけなのである。もう少し写真をお見せしよう。これはウェルギリウスで、ニンフェットたちを声を揃えて歌わせることができた詩人だが、たぶん少年の会陰のほうがお好みだったのではなかろうか。これは国王アクナーテンと王妃ネフェルティティのあいだに生まれた、まだ結婚可能な年齢に達していないナイルの娘たち二人で(国王夫妻は同腹で六匹生んだ)、きらきらした珠の首飾りをいっぱいつけ、クッションに身体を休めた恰好で、三〇〇〇年経ってもそっくりそのまま保存され、子犬のような身体は薄茶色でふっくらして、髪は短く、目は切れ長で漆色をしている。