大岡昇平『武蔵野夫人』

 学者秋山の出世主義にはもともと徳の入る余地は少なかつたが、彼の姦通の趣味は主として彼の専門のスタンダール耽読によつて涵養された。この十九世紀サロンの大恋愛者は、夫婦関係を少しも恋愛の障害とは考へてゐなかつた。むしろ情熱をそゝり、偉大にまで導く愉快な抵抗の一つと考へてゐた。恋愛を知らない空想家であつた秋山は、彼我国情と時代の相違を考へず、それを頗る真面目に、つまり自分勝手に取つた。