カズオ・イシグロ『日の名残り』

 「叔母のお友だちのジョンソン夫人からですわ。おととい叔母が亡くなったそうです」。彼女は言葉を切って、それからまた言った。「明日がお葬式です。一日お休みを頂いてさしつかえございませんでしょうか」
 「ええいいですとも、何とかなりますよ、ミス・ケントン」
 「ありがとうございます、ミスター・スティーヴンズ。申し訳ありませんが、少し一人にしていただけますでしょうか」
 「もちろんです、ミス・ケントン」
 部屋から出てはじめて、お悔みの言葉を口に出して述べなかったことに私は気がついた。この知らせが彼女にとってどれだけつらいものかは、私にも想像がつく。叔母は彼女にとって母親同然だったのだから。私は廊下で立ちどまり、戻っていってドアをノックしてこの遺漏を正すべきか否か思案した。と、もしそんなことをすれば、彼女が一人悲しんでいる場に踏み込んでしまいかねないことに思いあたった。実際、いまこの瞬間ミス・ケントンが、私からほんの数フィート離れたところで、一人泣いているということも大いにありうる。そう思うと、不思議な気持ちが胸に湧き上がって、しばし決意のつかぬまま私は廊下に立ち尽くしていた。だがやがて、お悔みを言うのはまたの機会をを待つのがよかろうと判断し、その場を去った。