ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』

 玄関の石段の上で彼は鍵を取り出そうとして尻ポケットを手探りした。ない。脱いだズボンに入れっぱなしだ。取ってこなければ。ジャガイモならあるんだが。あの衣装箪笥はギシギシいうからな。あいつを起こしたってしょうがない。さっきずいぶんと眠そうに寝返りを打っていたから。後ろ手にそっと、もう少し、玄関のドアを引くと、裾皮が柔らかい蓋のように静かに敷居の上に落ちた。閉まったようだ。帰ってくるまではとりあえず大丈夫。
 七十五番地にある石炭投入口の緩んだ上げ蓋を避けながら、彼は陽の当たる方に渡った。日光は聖ジョージ教会の尖塔にまで差し掛かっていた。暑い日になりそうだ。黒い服なんか着ているからなおさらだ。黒は熱を伝導し、反射(屈折だっけ?)する。だけど、まさかピクニックじゃあるまいし、あんな明るいスーツを着ていくわけにもいかないからな。陽気な温もりの中を歩きながら、彼のまぶたは何度も静かに下りてきた。


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 ご婦人方(フラウエンツィンマー)がリーヒーの高台からそろりそろりと石段を下り、偏平足を沈積土に沈ませながら、おぼつかない足取りでなだらかな浜辺を歩いてきた。僕と同じく、アルジーと同じく、我らが大いなる母の許にやって来たのだ。一人目は助産婦の鞄を重そうにぶら下げ、もう一人は傘を浜辺に突き刺している。今日一日休みにして、特権地区からやって来たんだろう。多くの人に悼まれつつこの世を去ったブライド街の故パトリック・マッケイブの未亡人、フロレンス・マッケイブ、僕は彼女の同業者の誰かの手によって引っ張られ、この世にオギャアと出てきたわけだ。無からの創造。鞄の中には何が入ってるんだ? へその緒をつけたまま血まみれのラシャにそっとくるまれている流産された子供。すべての緒を辿っていけば、そこにはより合わさって一本になった肉体の太線がある。なるほど秘教の僧侶はそれで。おまえは神のつもりなのか? 自分の中心(オムファロス)たるへそを見るがいい。もしもし、キンチだが。楽園町(エデンヴィル)につないでくれ。アルファ、アルファの〇〇一番だ。


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そうよだってあのひとシティーアームズほてるのときからずっとたまごふたつのちょうしょくをねどこでとりたいなんていったことないしあのころはわざとへんなこえをだしてびょうきのふりなんかしていいきになってリオーダンふじんにきにいられてるつもりでいたけどあのくそばばあじぶんのにくたいとたましいがすくわれるためのおふせはするけどわたしたちにいっせんものこさないけちんぼうでへんせいアルコールに4シリングだすのにもびくびくしてあれこれびょうきのはなしをしたりせいじやじしんやせかいのおわりのことなんかしゃべってばかりですこしはたのしいおもいをさせてくれてもよさそうなものだけどあんなおんなにみずぎだのローネックだのきられたひにはじょうだんじゃないだれもそんなものみたくないしおとこがはなもひっかけないようなおんなだからしんじんぶかくなるわけだし