マイケル・フレイン『ザ・トリック・オブ・イット』

 僕にとって耐えがたいのは、一瞬のあいだ彼女が僕の主張を認識したこと、僕の権利を承認したことだ。僕に拳骨でテーブルを叩きたくさせるのは……
 電話だ。ベルが鳴っている。ちょっと失敬。
 何でもない。神経衰弱の学生からだ。そう、僕を月に吠えたくさせるのは、ロンドンに戻った彼女が、まるで何ごともなかったみたいにスイスイ書いてるにちがいないという思いだ。知りたいものだ、一瞬でいいから彼女が想像の世界から顔を上げて、そして……
 でもたったいま別の可能性を思いついた。もしかしたら彼女は、何ごともなかったみたいにスイスイ書いちゃいないかもしれない。もしかしたら、まさにゲストルームでのあの出来事を脚色して書いているかもしれない。彼女の小説によく出てくる、おそろしく慧眼の、つむじ曲がりのカニみたいなヒロインの一人が、どこぞの高慢ちきな若手学者のナス色のパンツを見て、ささっと不気味にカニ歩きしているかも。いや、君に白い目を向けられなくてもわかってる。ここにひそむアイロニーくらい、僕だって気がついている。でもこれとは違う。彼女は僕みたいに、都合よく遠い国にいる友人に向けてプライベートな手紙を書いてるわけじゃない。あっちは僕の友人たちに向けて書いているんだ。僕の敵たちに向けて。僕の同僚たちに向けて。僕の学生たちに……。
 何だって? 僕のパンツはほんとにナス色かって? もちろんナス色なんかじゃないさ! 君、少しは僕の趣味を知らんのか? ナス色だって彼女が書いてるかもしれないっていうだけさ! そういうことをするんだよ、ああいう連中は。話に尾ヒレをつけて、真実より面白いものを作る――要するに、噓をつくのさ。

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