色川武大『怪しい来客簿』

 あの世、というと、どうもなんだかニュアンスがちがう。天国、彼岸、ますますぴったりこない。いっさいのものの向こう側だの、天の彼方だの、そんな感じではなくて、あるとすれば、それは、我々の居る空間とはまったくダブっており、我々はただきわどくすれちがっているだけのような気がする。証拠はないけれど、こういう空間が他にあるものかと思う。
 人が死んでどうなるかというと、燃えて死灰と化してしまうだけの話で、それにまちがいないようにも思われるが、確かなことはなにもわからない。人間は常にあやまちをおかしており、たとえ神さまが勘ちがいをなさっている場合でも、それ以上にミスをしている、とものの本に書いてある。
 したがって我々は、逆にどれほどひどくまちがっても驚くことはないので、死ねばそれっきりと思おうと、死んだ向こうにまた何かあると思おうと、どう思おうがかまわない。どちらかといえば、死ねばそれっきりとなった方が、面倒がなくてありがたい。
 あれは、突然やってくるもので、つい先日も大きな鳥が、頭上の夜空に来た気配で、夜鳥はひと声というが、その鳥は、
「御飯はいらない、御飯はいらない、御飯はいらない――」
 二声も三声もそういって鳴きながら遠くへ去っていった。
 そのとき私は寝転んで、胸の上の雑誌にぼんやり眼を向けていたが、周辺に陽炎がたったような気がする。そうして雑誌が何かに押されて顔の上に倒れかかった。
 いそいで元の形に戻そうとするが、重たい空気の層のせいで雑誌がひしゃげていてなかなか立たない。宇佐美のお婆さんがもうそのとき脇に来ていて、遠慮がちにこういった。
「先(せん)だっては、ありがとうございました。思いがけなく、あたりのことなかをまァ、あなふうに書いてくださって――」
 宇佐美のお婆さんは神楽坂の夜店に、大正頃から戦争中まで長いこと立っていた人で、昭和二十年代に養老院で亡くなったと覚しい。娘時代に不慮の出来事にぶつかり、それから終始一貫、世を捨てて孤独に生きた。人間は本当に生きようとすると化け物のように怪しく不恰好にならざるをえない。

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