永井荷風『腕くらべ』

 例えば歌舞伎座の話が出たとすれば菊千代は、沢瀉屋(おもだかや)が『勧進帳』をやってる最中に正面桟敷で変な事をしたお客がいたので狂言は一幕めちゃめちゃになってしまったんですってね。しかし昔から芝居にはよくそういう事があるんだって。そうすると縁起がいいんだって芝居の人はお祝をするんですってねというような話をする。箱根の話が出れば、わたし箱根では知らない余所(よそ)のお客さまと大変な事しちまった事があるのよ。呑み過したお酒をさまそうと一人湯へはいって好(いい)心持にうとうとと湯舟の中に漬っているとふと毛むくじゃらな男の肌の身にさわるに、てっきりこれは自分のお客、熊のようにおそろしいほど毛深いお方と知っているだけこちらは別に不思議な気もせず、立こめる湯気燈火を包む暗さに、馴れし身はあまり察し早くこっちから先に承知して、眠った眼開きもせず男の手を取って引寄せたのみか、少しお小遣ねだりたい矢先とて日頃にまさった実意と極意を見せるには丁度幸いどこも綺麗に洗われているはずの湯の中と思えばふといつぞや洋行帰りの人から教(おそわ)った事そのままにためす情(なさけ)は人のためならじ。下さるお小遣もまた一倍かと慾も手つだって、まアあなたお聞きなさいよ。わたしも随分馬鹿だわねえ、普段は何ぼ何でも出来ない事だと思うからに自分から先ず物珍しい心持してつい調子に乗れば、どうでしょう向の人もあんまりだわ、お角(かど)がちがうとも何ともいわず、芸者も女郎も並大抵ではしもされぬ事そのままだって好加減(いいかげん)させ抜いた揚句は相図さえしてくれず、いきなり、いやな鼻声身をふるわすかと思えば忽ちしたたか私が口の中うろたえて後の仕末どうしようと目を明く途端に耳元近くおそろしい女の声。三方一度に顔見合わせれば、私がお客と思ったのは見も知らぬよその人。おお汚(きた)なその途端這入(はい)って来たのはその人の新婚したての御婦人とやら。後で聞けばじきに不縁になったとか。あんな忌々しい事生れて始めて、泥棒に後先から迫められたよりなおいやと、まず万事万端この類である。