北杜夫『どくとるマンボウ航海記』

 翌日、次第にうねりが大きくなってきた。日本の方角は雲がたむろし、島があるようでないようで判然としない。前甲板(かんぱん)は完全に波に洗われている。船首に波がぶつかってくだけちると、それが無数のしぶきとなって船上を横ぎる。波は遠くの方は泥か粘土の造り物のように見え、近づくにつれて生きてのたくって躍っている。日が雲に隠れ、また現われ、それにつれて海面は刻々に変化する。その変化は千様であり、山のそれよりももっと素早く、また荒々しくとりとめなく、一定の規範を有しない。私はしぶきのこない船尾の甲板に出て、潮騒と風の唸りを聞き、溶岩のうねりのように湧き立つ波頭を長いこと見つめた。それは原始の溶鉱炉で、最初の生命がこの地球上に生じてきた場所にいかにもふさわしく、重々しく鉛色に湧きかえっている。金具や索具に塩の結晶がこびりついており、指が塩っぽく、特有のねっとりした感じになる。船室に戻ると、潮の香(か)が身体(からだ)全体に沁みついているのがはっきりとわかる。
 私は今や広漠とした海の気をあびて大いに嬉しくなり、たちまちにして一つの詩のごときものをひねくりだした。


   これは海だ
   海というものだ
   ああ、その水は
   塩分に満ちている