田宮虎彦『沖縄の手記から』

 空襲はまたはげしくくりかえされるようになった。暁闇の空に曳光弾が花火のように弧を描き、はげしい空襲の中に、やがて朝焼けに空が焼けて、夜が明けていく日もあるようになった。幾機かのB29がはるかな上空に飛行機雲をつぎつぎにひいて飛び去る度数もはげしくなった。それが偵察のためであることも私たちにはわかっていた。三月初め、フィリッピンのルソンではすでに戦闘は終っていたし、硫黄島では味方は最後の抵抗をわずかにつづけているにすぎなかった。私たちの前面に上陸作戦を企図したアメリカの機動艦隊が沖縄近海に迫って来ていることは、もはや疑うことが出来なくなっていた。私たちの対空砲火は、すべて地上砲火にきりかえられ、私たちはその機動艦隊が私たちの前面の海岸に上陸作戦を行なう日を待つばかりになった。もしアメリカ軍が小禄海岸に上陸作戦を行なう時は、海軍部隊は、沖縄方面根拠地隊を主力として、壕によって直ちに水際に敵を撃退することになっていた。待つという言葉は、私たちの心のありようを決して正しくはつたえなかったが、それは、やはり、待つというよりほかいいようはなかった。私たちはその日を待った。そして、その日は、待つ間もなく来た。