辻邦生『旅の終り』

「死んだのは若い男女で、何か毒薬で自殺したんです」妻が日本語で彼の言葉をくりかえした。
 私はジュゼッペの顔をみた。「イタリアで……?」私は思わずいった。彼は敏感にさとって肩をすくめた。
「愛してたんでしょうが……よくあることです」
 私たちはその夜、一晩じゅう雨の音をきいていたように思う。妻は蒼い顔をし、どうしても一人で寝られないといった。しかし妻が私のベッドに寝息をたててからも、私は眠ることができなかった。
 どのくらいたった頃だろうか、私はそっと起きて、窓をあけ、外を見た。雨はまだ降りしきり、街燈の光のなかで、雨脚がしぶきをたてていた。雨につつまれた町は死にたえたように静まりかえり、事件のあった家も闇のなかでひっそりしていた。さっきの騒ぎはうそのようだった。しかしかえって、この雨にうたれた空虚な闇が、私に、最後にここまできた若い男女のことを考えさせた。なぜかこの二人が死んだことが、私には、安らかな、ある悲劇の終末のような気がした。そこに空虚と沈黙と同時に、果しない休息もあるような気がした。「こんな静かな町で、誰にも知られず、野心もなく、暮してみてもいいわね」妻がそういったときの気持が、私のなかに、雨のしずくのように、流れこんでくるようだった。その妻は蒼ざめて、いまは静かにねむっている。おそらくあんな事件を眠りのなかまでは持ちこむまい。私は、妻のほうを見たが、暗い部屋のなかで、そのかげを見わけることもできなかった。
 果してここに止まることは、安らかさのなかへの休息なのであろうか。歴史もなく、歴史に鞭うたれることもなく……。ジュゼッペ一家のように?
 私は暗い人気ない通りに雨の降りしきるのを見つめながら考えつづけた。おそらく私たちは明日午後の列車で町をたつだろう、何一つ未練なく……。そして五年後には、ジュゼッペのことも忘れるだろう。おそらくこの小さな事件のことも……。にもかかわらず私はこの町にとどまりたい激しい衝動を感じた。これは一瞬ふれあい、また永遠に離れていってしまう何かである気がした。「シラクサの僭主ディオニュシオスは……」私は思わずそうつぶやき、街燈の光のなかにしぶく雨脚を、ながいこと見つめていた。