円地文子『妖』

 坂と母屋との中段になる部屋もそこにひとり寝るようになってから、思いの外、千賀子にさまざまなことを教えた。非力な千賀子は夜具の上げ降ろしを苦にして、その部屋にソファ兼用のベッドを置いた。夜は勿論、昼でも机の前の仕事に疲れた時は、時構わずそこに身を横たえるのだったが、ベッドは坂に面した壁によせてあるので、そこに寝ると、千賀子は路面から三尺ほど低い坂の腹にぴったりくっついて横たわっていることになる。それは棺の中にねているような異様な静かさに千賀子を誘い入れた。
 坂を歩いてゆく人の靴や下駄の音がからから乾いて耳の上に聞え、自動車の警笛や話し声はもっとずっと上の方で聞えた。面がずれているので頭を踏まれている感じはなく、雨の降りしきる時は坂から崖を伝って流れ落ちる水の声が際だって耳に入った。凝っと身を横にして斜め上の坂の地面から聞えて来るそれらの人間臭い音に耳を預けていると、起きて眼でみている時よりも遥かにその人々の動き語っているさまが生々浮び上り、心を揺りたてるのである。
  (中略)
 梅雨時のしんめり冷やかな午後であった。千賀子はその日も坂に出て、人気の絶えた往来の静かさに浸っていた。土手の灌木の緑に半ば埋もれて萼紫陽花の花が水色に二つ三つのぞいている。薄鈍びて空に群立つ雲の層が増して、やがて又小絶えている雨が降りはじめるのであろう。千賀子はこの季節の白い光線を滲ませて降る雨が好きなのである。