幸田文『おとうと』

 太い川がながれている。川に沿って葉桜の土手が長く道をのべている。こまかい雨が川面にも桜の葉にも土手の砂利にも音なくふりかかっている。ときどき川のほうから微かに風を吹き上げてくるので、雨と葉っぱは煽られて斜になるが、すぐまたまっすぐになる。ずっと見通す土手には点々とからかさ洋傘(こうもり)が続いて、みな向うむきに行く。朝はまだ早く、通学の学生と勤め人が村から町へむけて出かけて行くのである。
 げんは割に重い蛇の目をかたげ、歯のへった歩きにくい足駄で、駈けるように砂利道を行く。片側は大きな川、片側は土手下の低い屋根がならんでい、桜並木より他にもののない土手の朝である。のろのろと歩いているものなどひとりもない中だけれど、その足達者な人たちを追い抜き追い抜き、げんは急いでいる。一町ほど先に、今年中学一年にあがったばかりの弟が紺の制服の背中を見せて、これも早足にとっとと行く。新入生の少し長すぎる上着へ、まだ手垢ずれていない白ズックの鞄吊りがはすにかかって、弟は傘なしで濡れている。腰のポケットへ手をつっこみ、上体をいくらか倒して、がむしゃらに歩いて行くのだが、その後姿には、ねえさんに追い着かれちゃやりきれない、と書いてある。げんはそれがなぜだか承知している。弟は腹をたてているし癇癪をおさめかねているし、そして情なさを我慢して濡れて歩いているのだ。だからそんな惨めったらしい気持や恰好を、いっそほっといてもらいたいのだ。なまじっか姉になど優しくしてもらいたくないのだ。腹たちっぽいものはかならずきかん気やなのだ、きかん気のくせに弱虫にきまっている。――碧郎のばかめ、おこらずになみに歩いて行け、と云いたいのだが、まさか大声を出すわけにも行かないから、その分を大股にしてせっせと追いつこうとするのだが、弟はそれを知っていてやけにぐいぐいと長ズボンの脚をのばしている。げんも傘なしにひとしく濡れていた。

   ※太字は出典では傍点