北杜夫『幽霊』

 ……僕は書物の群のなかにひとり佇んでいた。うすい日ざしが窓からさして、床に積まれた本の皮表紙をにぶくひからせ、埃についた指跡をうきあがらせた。無数の本たちはいつものとおりおし黙っていた。そのなかに立って、僕は目をこらしてあたりを窺った。もしや〈死〉の影を見つけられるのではないかと思って。そんなものは見える筈がなかった。僕はひくひくと鼻孔から息をした。すると、ある匂いが――むしろ臭気とよんでいいある匂いが鼻をついた。それは非常にはっきりした記憶で、たとえば原っぱの雑草のはく匂いなどとは比すべくもなく明瞭なものであった。それは古い部屋の、無数の本たちの、埃の、黴の匂いにちがいなかったが、同時に父の匂いとも言えるものであった。父は特有の体臭をもっていた。彼の机の周囲にゆくとそれを感じたが、僕の記憶としては本たちの匂いとほとんど区別することができない。
 とにかく僕は父の匂いを感じた。するとその瞬間、たとえのようのない懐しさと落着きとが僕の内部にわきあがってきた。〈死〉が旅先の父をかくしてしまったことを僕は知っていた。父はもうどこにもいないのにちがいなかった。そのくせあたりには彼の匂いが漂い、そしてちいさな僕が嘗つて彼のいた場所に立っていた。意味ありげな錯覚が、あたかも酩酊のように僕を領した。それは僕がいま、父と同じものであるという確信であった。
 僕は生れてはじめて、それまで実際にはある疎遠感をもっていた書物のひとつを手にとってみた。片手でやっとかかえられるほど大きな固い表紙の画集であった。湿ってくっついた写真版が、めくるたびにぱりぱりというごくかすかな音をたてた。そしてさきほどの匂いが、汚染(しみ)のある古い厚ぼったい紙からあたらしく漂ってくるように思われた。僕は無意識に父の姿勢をまねていた。猫背ぎみに、首をやや左にかしげ、ぎこちないいらだたしさで頁をめくった。