吉行淳之介『驟雨』

 高い場所から見下ろしている彼の眼に映ってくる男たちの扁平な姿、ゆっくり動いていた帽子や肩が、不意にざわざわと揺れはじめた。と、街にあふれている黄色い光のなかを、煌めきつつ過ぎてゆく白い条(すじ)。黒い花のひらくように、蝙蝠傘がひとつ、彼の眼の下で開いた。
 町を俄雨が襲ったのだ。大部分の男たちは傘を持たぬ。
 色めき立った女たちの呼び声が、地面をはげしく叩く雨の音を圧倒し、白い雨の幕を突破った。
「ちょっと、ちょっと、そのお眼鏡さん」
「あら、あなたどこかで見たことあるわよ」
「そちらのかた、お戻りになって」
 めまぐるしく交錯する嬌声。しかし、その誘いの言葉は、戦前の狭斜の巷について記した書物を繙いたとき眼に映る言葉から殆ど変化していないことに、彼は今はじめてのように気付いた。
 彼はその呼び声を気遠く聞きながら、夜はクリーム色の乾燥したペンキのように明るいだけの筈であるこの町から、無数の触手がひらひらと伸びてきて、彼の心に搦みついてくるのを知った。
 夜のこの町から、彼ははじめて「情緒」を感じてしまったのである。