川端康成『千羽鶴』

 奥から菊治は手紙を持ってもどって来て、
「文子さんの手紙がとどいてましたよ。切手の貼ってない……。」
 と、気軽に封を切ろうとした。
「いや、いや。御覧にならないで……。」
「どうして?」
「いやですわ。お返しになって。」
 と、文子はいざり寄って、菊治の手から手紙を取ろうとした。
「お返しになって。」
 菊治はとっさに手をうしろへかくした。
 はずみで文子は菊治の膝に左手を突いた。右手で手紙を奪おうとした。左手と右手とは反対の動きをして、体の均衡が崩れた。菊治に倒れかかってゆきそうなのを、左手が後へ支えて突っ張ったのに、右手は菊治の背後にあるものをつかもうとして、前へ伸び切った。文子は右によじれて、横顔を菊治の腹へ落すように、のめりそうなのである。それを文子はしなやかにかわした。菊治の膝に突いた左手さえ、やわらかに触れただけであった。右によじれ前にのめる上半身を、こんなやわらかい手ざわりで、どうして支えられたのだろう。
 文子がぐらっとのしかかって来るけはいで、きゅっと体を固くした菊治は、文子の意外なしなやかさに、あっと声を立てそうだった。烈しく女を感じた。文子の母の太田夫人を感じた。
 どの瞬間に文子は身をかわしたのだろうか。どこで力を抜いたのだろうか。それはあり得べからざるしなやかさであった。女の本能の秘術のようであった。菊治は文子の重みが強くかかるものと思っていたところへ、文子は温い匂いのように近づいただけであった。