高田保『ブラリひょうたん』

     若芽の雨
 モウパッサンはバッシイの養老院の庭で、小石をばらばら花壇に投げつけていったそうだ。
「来年の春になって雨が降ったら、こいつがみんな芽を出して、小さなモウパッサンが生えるんだ……」
 こんな話をすると誰もが一応面白がる。モウパッサンの文学などに何の関心も持たぬ連中でも面白がる。ゴシップの興味というやつだろう。
 それにしても君は実につまらんことを知っているね、と皮肉な友人はしばらくしてこういう。僕はそこで答える。そうだよ。僕はまったくつまらんことしか知っていない!
 僕はピカソについてなど本筋のことは何も知ってやしない。原色版以外の彼の画など一枚だって見たこともないといってもいい位のものだ。しかし彼がちっとも本を読んでいないことは知っている。彼と何年間か同棲した女が、彼の読書している姿なんて一度も見たことがなかったといっているからだ。
 そういえば、ドビッシイも読書をしなかったそうだ。とすぐ私は続けたくなる。が、この偉大なる近代作曲家についても、私はほんの些細な知識だって持っていはしない。
 大雅堂のやつは学問をしなかったから、晩年の画は駄目になった、と鉄斎が批評したそうだ。そこへいくとわが輩などはというつもりだったのかもしれない。とこう話を並べて行くと、どうやら芸術家についての知性と感性の問題に触れそうな工合にもなる。ここでその通りに展開すれば私もえらいのだが、そこまで深入りすると底がみえる。己れを知っているからひらりと体をかわして外の話へうつる。
 こういう私ごとき人物は軽薄きわまるものであって、当然心ある方々からは排斥されるべきに違いない。私としても同感である。私はペンを取上げて、今日こそは堂々たる、内容たっぷりな、いかにも瞑想的で憂鬱な文章を書こうとおもい立った。すわり直して眉をしかめ、さてしずかに窓前に目をやると五月の雨が降っている。すると途端に「モウパッサンは」と出てしまったのである。やりきれない。馬鹿は死ななきゃ治らない。
 モウパッサンの小石が果して芽を出したかどうかは知らない。私は私のような馬鹿がこの世にあることを軽蔑したいから、小石を蒔くようなことはしない。窓前の雨はしとしとと降っている。若芽を濡らした明るい雨、眺めているといつか何もかも忘れてしまった。何もかも忘れた中でまた一つ、つまらぬことを思い出した。それはソフォクレスのだという言葉――
「一生を馬鹿で過せたらこんな幸福はない」