トーマス・マン「幻滅」(実吉捷郎 訳)

 「人生というものは、私にとってはまったくのところ、いろんなぎょうさんな言葉から成り立っていました。なにしろ、そういう言葉が心中に呼び起す、あの絶大な茫漠たる予感をのけたら、私は人生についてなにひとつ知っていなかったのですからね。私は、人間からは神のごとき善良と、身の毛もよだつ邪悪とを期待していました。人生からは、目もさめるような美しさと物凄さとを、期待していました。そうして私の胸は、すべてそういうものに対する欲望で、いっぱいになっていたのです。それはひろい現実への深い、不安にみちた憧憬です。どんな種類のにしろ、ともかく体験というものへの憧憬です。酔いしれるばかり華やかな幸福と、いいようもなく、思いも寄らぬほどおそろしい苦悩とへ向っての憧憬なのです。