トーマス・マン「幻滅」(実吉捷郎 訳)

 「御心配には及びません。私は私のいろんな幻滅を、一々こまかくお聞かせしはしませんから。ただこれだけ申し上げればたくさんなのです。それは、私が人生に対する大げさな期待を、因果にも一生懸命になって様々な書物で――詩人たちの作物で養ったということですよ。ああ。私はあいつらを憎むようになりました。あの詩人どもを。あいつらは持ちまえのぎょうさんな言葉を、壁という壁に書きつけたがっている。いや、ベスビアスの中に漬けた杉の樹かなにかで、できることなら、大空いっぱいに描いて見たくってたまらないのだ。ところが、そんなぎょうさんな言葉はどれもこれも、私にはどうしたって噓か嘲弄としか、感ぜられはしないのです。
 「酔っ払った詩人どもは、私に歌って聞かせました。言語は貧しい。悲しいかな。言語は貧しい。――なんの、あなた、大違いです。私にいわせれば、言語はゆたかなものです。このけち臭い狭苦しい人生に比べたら、それこそ溢れるばかりゆたかなものです。苦痛には限界がある。肉体的のは気絶が、精神的のは白痴がとまりでしょう。幸福だって同じことではありませんか。ところが、人間の発表欲というものが、その限界を乗り超えて、法螺を吹き立てるような音声を案出したのですね。
 「これは私が悪いのでしょうか。ある言葉の作用が背すじをずっと伝わると、どこにも存在しない体験の予感が、心中に呼び起されるなんというのは、これは私だけなのでしょうか。
 「私はその名も高い人生の中へ出て行きました。私の偉大な予感に釣合ってくれるような体験が、一つでもあればという熱望で、胸をいっぱいにしながらですね。ところがなさけないではありませんか。そんなものは、私には授けられなかったのです。私はほうぼう歩き廻って、世界でも最も高名な場所を訪(おとの)うたり、または人類が最大級の言葉とともに、そのまわりを躍り廻っているような芸術品を見に行ったりしたものです。その前に突っ立って、私は独りごとをいいました。――これはみごとなものだ。しかし、こうもいったのです。――だが、もっとみごとなものじゃないのか。これだけのことなのか。
 「私には、およそ事実というものに対する感覚が、まるでないのですね。そういったら、すっかり説明がつくかもしれませんよ。ある時ある所で、私は山の中の峡(たに)のふちに立ったことがあります。絶壁がむきだしで、垂直になっていて、下の方には、岩石の上を水がどうどうと流れている。それを見おろしながら、飛び込んだらどんなものだろうと考えたのですな。ところが、今までの充分な経験から、私は自分にこう答えました。――飛び込んだところで、おれは落ちながら、胸の中でこういうだけだろう。今落ちてゆくのだな。なるほどこいつは事実だ。しかし、結局これがどうしたというのだ。
 「ところで、少しは人なみに口を利いても好いと思うほど、私はいろんな目に会ってきたのですが、そういっても信じていただけるでしょうか。ずっと昔、私はある少女に恋をしました。優しいかわいらしい奴でしたが、私はその少女を、自分で手を引いて護っていってやりたかったのですね。ところが、無理もないのですが、女は私を愛してくれません。しかも他の男がその女を護ってもいいことになってしまったのです。――世の中にこれよりも悩ましい体験がありますか。情慾と残酷にまざり合ったこの辛辣な悲痛以上に、人を苦しめるものが、またとありましょうか。幾晩となく、私は眼を開けたままで、横になっていました。しかも、ほかの何事にもまして悲しくせつなかったのは、いつもこう考えることだったのですよ。――これこそは大なる苦痛だ。今おれはそれを体験しつつある。しかし、結局これがどうしたというのだ。