福田恆在「一匹と九十九匹と」

 文学は阿片である――この二十世紀においては宗教以上に阿片である。阿片であることに文学はなんで自卑を感ずることがあらうか。現代のぼくたちの文学をかへりみるがいゝ――阿片といふことがたとへ文学の謙遜であるにしても、その阿片たる役割すらはたしえぬもののいかにおほきことか。阿片がその中毒患者の苦痛を救ひうるやうに、はたして今日の文学はなにものを救つてゐるのであらうか。所詮は他の代用品によつても救ひうる人間をしか救つてゐないではないか。とすれば、そのやうな文学は阿片の汚名をのがれたとしても、またより下級な代名詞を与へられるだけのことにすぎない――曰く、碁、将棋、麻雀、ラジオ、新聞、なほ少々高級なものになつたところで哲学、倫理学社会学、心理学、精神分析学……。こゝでもぼくはそれらに対する文学の優位をいふほど幼稚ではない――たゞ持場の相違に注意を求めるだけにすぎぬ。文学は――すくなくともその理想は、ぼくたちのうちの個人に対して、百匹のうちの失はれたる一匹に対して、一服の阿片たる役割をはたすことにある。