福田恆在「一匹と九十九匹と」

 たれもかれもがおのれの立場を固執してゆづらない。それは思想や信念のたしかさからきてゐるのではなく、むしろその逆であり、思想をもちえぬがゆゑに、眼前の事象にとらはれてうごきがとれぬのである。ひとびとのかたくなさはひとへに事実のかたくなさにすぎない。ある立場や見解と他の立場や見解とが相争ふやうにみえても、じつさいそれらの立場や見解の底にあるひとつの現実と他の現実とがぶつかりあつてゐるだけのことである。今日どこを見ても、思想の片鱗すらみとめられぬ。存在するのは思想ではなく、したがつて人間ではなく、たゞ事実の断片のみである。