セミョン・フレイリフ「時間の鋳型」(大月晶子 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフスキーの世界』所収)

タルコフスキー自身、その定義をカッコに入れて、それに以下のような性格づけをしていたのである。「「詩的映画」とみなされているのは、自分のイメージの中で、あえて現実の生活が提供する具体性から遠ざかり、それと同時に自分独自の全体構造を確立しているようなもののことである。しかし、多くの人は、ここにこそ危険が隠されているということに気づかない。映画にとっての危険は映画自身から離れることである。「詩的映画」は、普通、ある種のシンボル、アレゴリー、その他の修辞的表現を生み出すが、それらはまさに、映画に当然本質的に備わっているあの豊かな表現性と、全く何の共通性も持ってはいないのである」。