セミョン・フレイリフ「時間の鋳型」(大月晶子 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフスキーの世界』所収)

タルコフスキーは『列車の到着』を、「天才的な映画」と呼ぶ。なぜなら「ここから全てが始まった」からだ。こう言う時、彼は、映画はただ、撮影用カメラとフィルムと映写装置が発明されたが故に撮影されているのだということをはっきりと理解しているのである。しかしそれはただ技術的な発明であるのみならず、それと同時に映画芸術の誕生が起こった、即ち新しい美学的な原理が生まれたということでもあった。それは、彼の考えによれば、文化史上初めて人間が直接に時間を刻印する手段を見出した、ということに帰する。そして同時に、その時間を何度でも好きなだけスクリーンに映写し、繰り返し、そこに戻ることが出来る、ということでもある。刻み込まれた時間を、タルコフスキーは、現実の時間の鋳型と呼ぶ。「見られ、定着させられた」時が、「金属の箱の中で長く保存(理論的には永久に)」することが可能だからである。

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