2011-09-28から1日間の記事一覧

ヴィクトル・ボジョーヴィチ「詩的言語とアンドレイ・タルコフスキーの映像世界」(宇佐見森吉 訳)

個人の生存の時間、伝記的時間というものが、宇宙の暦に照らしてみれば実にわずかな一瞬にすぎないとしても、それでもその一瞬が確かに宇宙の生命と繋がっているという感覚、人々や王国の千年の歴史、文化の歴史と、過去や未来と繋がっているという感覚がこ…

セミョン・フレイリフ「時間の鋳型」(大月晶子 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフスキーの世界』所収)

人はただ自分自身にのみ属しているものではなく、鏡を通して見るように、他人の中に自分を見ることができる、つまり、よりよく自らを理解することができるのである。

セミョン・フレイリフ「時間の鋳型」(大月晶子 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフスキーの世界』所収)

タルコフスキーは『列車の到着』を、「天才的な映画」と呼ぶ。なぜなら「ここから全てが始まった」からだ。こう言う時、彼は、映画はただ、撮影用カメラとフィルムと映写装置が発明されたが故に撮影されているのだということをはっきりと理解しているのであ…

セミョン・フレイリフ「時間の鋳型」(大月晶子 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフスキーの世界』所収)

タルコフスキー自身、その定義をカッコに入れて、それに以下のような性格づけをしていたのである。「「詩的映画」とみなされているのは、自分のイメージの中で、あえて現実の生活が提供する具体性から遠ざかり、それと同時に自分独自の全体構造を確立してい…