多和田葉子「「新ドイツ零年」と引用の切り口」(「現代思想臨時増刊号 ゴダールの神話」所収)

かけらは〈全体〉ではない。映し出されるかけらは、引用なのである。でも、かけらにはかけらならではの強い身体性がある。それとは対照的に、〈全体〉というのは概念であるから身体性に欠ける。だから、人文字、整列、大集会、行進などの形で、生きた人間の身体を使って、全体主義は自らの非身体性を補おうとする。無理に集められた人間の群れが苦しげに移動する様が、白黒のスローモーションで不気味に映し出されるシーンがある。個々の顔は眼球が消えて歯が目立ち、骸骨のようにみえる。
 この映画は、引用というかけらから成り立っている。ここで言う引用とは、自分の正しさを証明するためにすでに権威を認められている人の言葉を借用する引用のことではない。この映画に姿を現わす引用は、同じひとつのものの中にある〈違い〉を示す役割を果たしている。同じひとつのドイツの中に東と西があり続けるように、ヘーゲルのひとつの文章の内部にもいくつもの文章が存在する。翻訳という作業がその事実を目に見えるように、あるいは耳に聞こえるようにしてくれる。同じバッハの音楽の中にも、異質な音楽がいくつも含まれている。だから、BACHという名前の綴りが、B、A、C、H、という四つの音としてばらばらになった時、それらを統合する絶対の法則があると思い込み続けることができなくなる。バッハもお互いに調和し合わない要素が集まって構成されているのであって、その一部は全体から解き放たれて引用されることで、輝きを増す。
 引用が引用であり続けるためには、作者が一度口の中でよく嚙んでから、自分の言葉にして吐き出してしまったのではいけない。それぞれの文章、音楽、場面が別々の世界からやってきたものであることが強調されなければいけない。だからこの映画では、いろいろな書物の表紙がしつこいほど映し出される。ブランデンブルク門の下で売られる本、図書室に並ぶ本、二か国語で朗読されるヘーゲル、地面に落ちた本、そしてホテルの部屋に備え付けの聖書。