ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』(斎藤昌三 訳)

 過去とは、遥か遠くをさらに遠ざかっていく海岸線のごとくで、われわれは皆、同じ一つの船に乗りこんでこれを見ているようなものです。船尾の手すりに沿って、ずらりと望遠鏡が並んでいます。どの望遠鏡も、それぞれ一定の距離で岸をはっきり見ることができるようになっています。船が停止していれば、たえず一つの望遠鏡が使われ、これを覗くと、変わることのない真実を隈なく見通すことができるような気がするかもしれません。しかし、これは錯覚にすぎません。船が動きだすと、われわれはいつもながらの作業にもどらなくてはならないのです。こちらの望遠鏡からあちらの望遠鏡へとせわしなく走りまわり、一つの望遠鏡ではっきり見えなくなったとわかると別の望遠鏡に取りついて、ぼんやり見えていたものがしだいにピントがあってくるをの待つしかないのです。そのくせ、ぼんやりしたものがはっきり見えてくると、われわれはあたかも自分ひとりの功績でそうなったかのように思いこむのです。