2011-08-26から1日間の記事一覧

ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』(斎藤昌三 訳)

書くことにかかわる真実なら、まだ何ひとつ作品を公にしない前であっても悟ることができるかもしれないが、生きることにかかわる真実は、時すでに遅しというときになってしか悟り得ないものである。

ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』(斎藤昌三 訳)

愛するということのうちにはすでに相手の死を覚悟することが含まれているものだからだ。

ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』(斎藤昌三 訳)

たぶん、作家への愛こそ、最も純粋で揺らぐことのない愛のかたちをとるものなのだろう。また、そうだからこそ、作家を擁護するのもなおさら容易なわざになる。

ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』(斎藤昌三 訳)

いったい、彼らが本当に探し求めているのは何なのだろう? 表向き探っているかのごとくにみえるものの奥に何かがあることは明らかである。その何かとは、ことによると、人間というものがどうしようもなく堕落しきっているという事実、人生とは白痴の頭のなか…

ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』(斎藤昌三 訳)

過去というものは、あるときは油まみれでつかまえにくい豚であり、あるときは洞窟にひそむ熊であり、またあるときは、そう、鸚鵡のきらめき、森のなかからあざけるようにこちらを見ている二つのキラキラ光る目のようなものにちがいないのである。

ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』(斎藤昌三 訳)

われわれはとかく過去に対して要求を強く持ちすぎ、こういうふうに何か確かに昔を肌で感じさせてくれるものがないと不満に思う。しかし、過去がわれわれに付き合わなければならない理由などあるだろうか?

ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』(斎藤昌三 訳)

過去とは、遥か遠くをさらに遠ざかっていく海岸線のごとくで、われわれは皆、同じ一つの船に乗りこんでこれを見ているようなものです。船尾の手すりに沿って、ずらりと望遠鏡が並んでいます。どの望遠鏡も、それぞれ一定の距離で岸をはっきり見ることができ…

ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』(斎藤昌三 訳)

では、もっと新しい作家たちはどうか? 現代の作家たちは? そう、確かに彼らはそれぞれが意図する何かひとつのことについてはなかなか達者だが、そもそも文学というものがいくつかの業を同時に為しとげるものだということを悟っていないようだ。

ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』(斎藤昌三 訳)

僕はなにも批判しているわけではなく、ただ観察しているだけである。

ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』(斎藤昌三 訳)

彼が軽蔑していた町、かわりに彼自身も無視されていた町を越え、視線は遥か彼方に向けられている。