蓮實重彦『映画 誘惑のエクリチュール』

映画は視線そのものを決して撮ることができない。フィルムがその表層に定着しうるのは、たかだか何ものかを見ているらしい瞳でしかなく、それじたいが比喩的な表象にすぎない視線の一語があてられている瞳孔とその視覚的対象物とを結ぶ線など、画面のどこをさがしても見当りはしないのだ。人は、編集を介して、画面のどこにも写ってはいない視線の交錯を知的に納得しているにすぎない。だから、視線とは、もっぱら文学的な虚構に属する不可視の抽象概念であり、映画はそれに対してもっぱら無力なものである。徹底した不在ですらありえない無償の透明性、それがフィルム的環境における視線の存在様態であり、その事実が、ときに視覚芸術などと呼ばれもする映画が背負いこんだ最大のパラドックスなのである。

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