2011-03-30から1日間の記事一覧

蓮實重彦『映画 誘惑のエクリチュール』

鏡を前にした場合のキャメラが、その撮影角度の限定として耐えねばならぬ制度性は、とうぜんのことながら、見つめあう二つの瞳を同時に画面にはとらええないといういま一つの限界となって露呈されることにもなるだろう。キャメラとは、凝視しあう視線に対し…

蓮實重彦『映画 誘惑のエクリチュール』

つまり映画には、キャメラが自分自身をとらええないという限界が存在しているのであり、その点においても、映画の制度性は露呈することになるだろう。

蓮實重彦『映画 誘惑のエクリチュール』

アンゲロプロスの最大の不幸は、ゴダールのように、彼があまりにも才能に恵まれすぎているという点に存しているのだ。

蓮實重彦『映画 誘惑のエクリチュール』

つまり複数性とは、模倣可能な対象ではなく、こちらが黙っていてもむこうから間近に迫り、じかに素肌にまといついて、理不尽な反復をしいる環境なのである。誰もが見たことも聞いたこともないものを思わず知らず擬態によって実践してしまうとき、複数性の環…

蓮實重彦『映画 誘惑のエクリチュール』

映画は、視線そのものを決して撮ることができない。フィルムがその表層に定着しうるのは、たかだか何ものかを見ているらしい瞳でしかなく、それじたいが比喩的な表象にすぎない視線の一語があてられている瞳孔とその視覚的対象物とを結ぶ線など、画面のどこ…