中沢新一『チベットのモーツァルト』

 つまり丸石は、なにかの意味の隠喩であったり、観念を模倣するものではなく、宇宙的なリズム、呼吸とでも呼ぶべきものの感覚的抽象化にほかならないのである(これに較べれば、男根を模倣した石などたかが知れたものではないか)。このため丸石は生命/非生命という二律背反までのがれて、物質に生命がふきこまれるという観念につきまとうすら、追いはらっているように、わたしには思われる。結局のところ物質に対する精神の優位性を示すことになる、死んだ木偶に生命を吹きこむ魂などよりも、丸石がみずからを開いているのは、もっと無分別ななにものかである。
 丸石は深層を産出しない、と言いかえることもできるだろう。丸石は、隠された、抑圧された闇の部分などを、みずからつくりだそうとはしない。そこには、現実そのものの力が観念ぬきで無媒介的に戯れあい、うねり、伸長し、収斂しつつ自己生成する世界が、裸形のまま輝きわたる表情で、わたしたちの意味的世界に顔をのぞかせている。丸石があたえる感動というのは、表層と深層との境界が演出するそれとは異なる、いわば徹底的な表層体験なのである。

   ※太字は出典では傍点