江藤淳『決定版 夏目漱石』

 作家達は、自らの信じているもの、自らの描いている人物が「亡霊」であると、その「新しさ」に追跡されつづけている心の底では感じながら、「亡霊」を描きつづけ、信じつづけねばならなかった。これは花袋以来、彼らの横面を張りつづけて来た西欧文芸の強烈な魅力と、自らの周囲の貧血した文学的現実との間に、我と我が身を引き裂かれた者の悲劇である。こうして書かれていないのは日本の現実のみであり、更に、明治以後の近代日本文学は、熱心に輸入された十九世紀以来の西欧文学に対する一種の「脚註」であるかのような観を呈するにいたる。ブリリアントな「脚註」は次々と書かれるが、日本文学の「本文」はいまだに数行しか書かれていない。ぼくらが通常傑作と称するのは、これらブリリアントな「脚註」のことであるが、これで満足しているのは半ば専門的な極く少数の文学鑑賞家だけで、一般の読者は空虚な心情をどうすることも出来ずにいる。一方、西欧的な美意識で培われた文学鑑賞家達の審美感は、てっとり早い「脚註」の出現を要求せざるを得ない。

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