柄谷行人「歴史について――武田泰淳」

 私の数少ない経験では、葬式には残酷なところがある。私はそれを葬式が形骸化してきたせいだと思っていたが、本当はそうではなかった。死者を悼むとか悲しむとかいった、人類史において比較的近代に属する観念のずっと底に、葬式がもっている本質がかくされている。それは死者を本当に死なしめること、いわば死者を生きている者の世界から追放することである。だから、死は物理的に考えられる瞬間の事実でもなく、生き残った者の悲哀や喪失とった意識的事実でもなく、一定の幅をもった共時的な出来事である。それは、一つの関係の体系がべつの体系に変形される過程の全体をさす。ひとが死に、そのあとで葬礼があるのではなく、葬礼も死の一部なのである。われわれは時とともに、悲しみを忘れそのひとの不在になれていく。が、そのときにはじめて「死」が完了するのだ。死者はもはや不在者とことなり、生きている者が再編成した関係の体系のなかに入りこむ余地がなくなっている。