須賀敦子『ミラノ 霧の風景』

船というものは、かたい道路ではなくて、うねうねとうねる水のうえをゆらゆらと揺れながら渡っていく。当然のことなのだが、この体験は衝撃的だった。とても、直線で何メートルというような基準には合致しない進行方法なのである。波まかせ、という言葉を思い出し、私は奇妙ないらだちを覚えていた。約束の時間に着かなければならない、という自分の意志に先行して、波が、水が時間を決めている。そう思うと、私は、こんな頼りにならないものに依存しているヴェネツィアの時間が、ちょうど舞台のうえの時間のように、ここだけにしか通用しない法則に司られていると感じたのだった。