石川淳『森鷗外』

「抽斎」と「霞亭」といずれを取るかといえば、どうでもよい質問のごとくであろう。だが、わたしは無意味なことはいわないつもりである。この二篇を措いて鷗外にはもっと傑作があると思っているようなひとびとを、わたしは信用しない。「雁」などは児戯に類する。「山椒大夫」に至っては俗臭芬芬(ふんぷん)たる駄作である。「百物語」の妙といえども、これを捨てて惜しまない。詩歌翻訳の評判ならば、別席の閑談にゆだねよう。
「抽斎」と「霞亭」と、双方とも結構だとか、撰択は読者の趣味に依るとか、漫然とそう答えるかも知れぬひとびとを、わたしはまた信用しない。この二者撰一に於て、撰ぶ人の文学上のプロフェッシオン・フォアがあらわれるはずである。では、おまえはどうだときかれるであろう。ただちに答える、「抽斎」第一だと。そして附け加える、それはかならずしも「霞亭」を次位に貶(おと)すことではないと。