木下直之「出来事をうつす写真」(『日本の写真家 2 田本研造と明治の写真家たち』所収)

 1871年に、開拓使は「音無榕山」を名乗る田本に札幌の撮影を命じている(明治4年8月20日付)。田本は1832(天保3)年に現在の三重県熊野市神川町に生まれ、23歳の時に長崎に赴いて蘭医吉雄圭斎の下僕となった。「音無」は故郷熊野の音無川に因み、「榕山」は長崎で与えられた名だという。箱館が開港された1859(安政6)年に、長崎から箱館に転勤した通辞松村喜四郎に伴って、箱館に移り住んだ。ロシア海軍軍医ゼレンスキーに就いて写真術を本格的に身につけるのは、それからあとのことである。