「紫苑物語」石川淳

 月あきらかな夜、空には光がみち、谷は闇にとざされるころ、その境の崖のはなに、声がきこえた。なにをいうとも知れず、はじめはかすかな声であったが、木魂(こだま)がそれに応え、あちこちに呼びかわすにつれて、声は大きく、はてしなくひろがって行き、谷に鳴り、崖に鳴り、いただきにひびき、ごうごうと宙にとどろき、岩山を越えてかなたの里にまでとどろきわたった。とどろく音は紫苑の一(ひと)むらのほとりにもおよんだ。岩山に月あきらかな夜には、ここは風雨であった。風に猛(たけ)り、雨にしめり、音はおそろしくまたかなしく、緩急のしらべおのずからととのって、そこに歌を発した。なにをうたうとも知れず、余韻は夜もすがらひとのこころを打った。ひとは鬼の歌がきこえるといった。