ドストエフスキー『白痴』(木村浩 訳)

彼は全身、頭のてっぺんから足の爪先(つまさき)まで、独創的な人間になろうという希望に燃えてはいるが、やはり《ずっと聡明な》平凡な人の種類に属していた。しかし、この種類に属する人びとは前にも述べたように、前者よりもずっと不幸なのである。なぜなら聡明な《ありふれた》人というものは、たとえちょっとのあいだ(あるいは一生涯を通じてかもしれないが)自分を独創的な天才と想像することがあっても、やはり心の奥底に懐疑の虫が潜んでいて、それがときには、聡明な人を絶望のどん底まで突きおとすことがあるからである。たとえ、それに耐えることができたとしても、それはどこか、心の奥底へ押しこめられた虚栄心に毒されてのことなのである。もっとも、われわれはあまりにも極端な例をあげすぎたきらいがある。この聡明な人たちの大部分は、決してそんな悲劇的なことにはならないですむのである。まあ、せいぜい年をとってから、いくらか肝臓を悪くするくらいのものである。しかし、それはともかく、あきらめてそれに服従するまでに、こうした人たちはどうかすると非常に長いこと、若い時代からかなりの年輩になるまで、軽々しい振舞いをつづけることがある。しかも、それはただ独創的な人間になりたい一念からなのである。いや、それどころか、奇怪な出来事にお目にかかる場合さえある。ときには独創的な人間であることを欲するあまり、潔白な人が下劣な行為をあえてすることさえもあるのである。しかも、こうした不幸な人のなかには、単に潔白なばかりでなく善良ですらあり、自分の家庭では神のごとき存在であり、自分の労働によってその家族ばかりでなく、赤の他人の世話まで焼いているくせに、どうだろう、一生のあいだ心を安めることができないのである。そのご当人にとっては、自分がりっぱな人間としての義務をはたしているという考えが、少しも心を安らかにせず、慰めにもならないのである。いや、かえってその心をいらだたせるのである。

   ※太字は出典では傍点